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国鉄鍛冶屋線(市原・鍛冶屋・中村町・曽我井・羽安)の巻


2007年2月24日(土)

ずいぶん長らく放っているとは思っていたが、丸々1年振りにもなるとは・・・という訳で、遺構めぐり第2弾は国鉄鍛冶屋線である。
鍛冶屋線は加古川線から枝分かれするローカル線の内の1本で、他の三木線と北条線が3セク転換されてレールが残っているのとは対照的に、さっさとバス転換されてしまっている。とはいえ、三木鉄道と北条鉄道も経営難が続いて存続の危機にあるのだが。
鍛冶屋線は加古川線の野村(現、西脇市)と鍛冶屋を結んでいて、西脇市の中心部を通っていた関係で加古川線からの直通列車が多く設定されていて、野村以北はこちらが本線のような状態であった。しかし、利用者が多かったのは野村〜西脇間のみで、鍛冶屋線全体で均してしまえば大した輸送量ではなく、また例によって線区毎という融通の効かない括りでもって評価されたため、廃止対象路線となってしまったのだ。
鍛冶屋線より明らかに輸送量の少なかった加古川線の野村〜谷川間は、加古川線の一部であったため廃止対象にはならなかった。もし加古川〜鍛冶屋間が加古川線という路線名称で、野村〜谷川間が例えば谷川線などという路線名称だったら、鍛冶屋までのレールは残っていて野村〜谷川間の方が廃止になっていたのかもしれない。
とはいえ、野村〜谷川間は阪神淡路大震災でJR神戸線が分断された際には迂回路線として活用され、更に後年電化までされたのだから、何が幸いするか解らない。
それではまず、加古川線の起点であった野村駅(現、西脇市駅)へとクルマを走らせてみよう。



カーナビの指示に従い、中国自動車道滝野社ICを降りて国道175号線を北上し、加古川を渡って西脇市駅前に到着。
私が鍛冶屋線に乗ったのは25年ほども前の事で、その後も何度か加古川線を利用してこの駅で乗り換えてもいるのだが、改札を出ることはなかった。
こうして駅を外から見ると、駅前には商店が1店あるだけで静かな住宅地だ。
地形の都合で分岐駅になっただけで、西脇市の中心部は前述の通り鍛冶屋線にあった西脇駅近辺である。
では、実際に鍛冶屋線の遺構を辿ってみるとしよう。

鍛冶屋線は野村駅3番ホームに発着し、加古川線から西へ分岐していた。
西脇市駅の北側にある踏切を渡ってすぐに右へ折れると、細い道が続いている。これが鍛冶屋線の線路跡で、どうやら遊歩道として整備されているらしい。

暫く行くと、狭い道との交差点に出た。以前は小さな踏切だったのだろうが、遮断機の跡などは見当たらなかった。

こうして見ると微妙なカーブの具合などは線路跡そのもので、歩いていて楽しくなる。
が、あまり遠くまで歩いてしまうと戻るのが億劫なので、適当に切り上げてクルマへ戻った。

続いて、車輌が保存されているらしい市原駅跡へと向かうとしよう。実は、カーナビの名称検索で『鍛冶屋線』をキーにして唯一ヒットしたのが鍛冶屋線市原駅記念館だったのだ。
 
西脇市駅を出発し、カーナビの指示に従って走行していると、県道の脇にいきなりキハ30が現れたから驚いた。

すぐ横に市川駅の木造駅舎が建っている。が、キハ30が置かれている場所とは位置関係が微妙におかしい。恐らく、キハ30の横にあるホームは後付けのものだろう。

駅舎のホーム側。改札ラッチこそないものの、漆喰塗りの壁や木製のベンチなどは現役当時のままだろう。

駅舎内には、記念館らしく様々な展示物が置かれていた。
 
 
特に注目して欲しいのは列車時刻表だ。1日14往復という運転本数は、廃止対象路線としては異様に多い。

雨曝しとなっているキハ30は、塗装はかなり色褪せているし、外板の痛みも激しい。

その横にある駅名標も痛みが激しい。

続いて、終点だった鍛冶屋駅跡へ向かおうと思う。取り敢えず、鍛冶屋という地名そのままの交差点をカーナビにセットして出発する。
と、500mも走らないうちに国道との交差点の先へ線路跡の遊歩道が別れて行くのを発見。慌ててクルマを停めて、観察開始。
 
ここから先、線路跡はまた遊歩道となっているようだ・・・とすると?

振り返ってみると、線路跡はこれまで走ってきた県道に繋がっている。どうやら今まで走ってきた県道は、どの辺りからか解らなかったが、線路跡を利用して拡幅したのだろう。

野村を発車した直後とは違って景色は拓けているが、やはり微妙なカーブを描いて遊歩道は延びている。

クルマに戻って再び走り出す。それほど広い道ではないが、大型相手でもそれほど気を遣わず離合できる道が続いている。交通量もそれほど多くないので、快適なドライブである。朝夕の通勤通学時間帯の状況は解らないが、鉄道でなければ運べないほどの輸送量があるとも思えない。
 
鍛冶屋交差点に着き、雰囲気的に元駅前通り?といった感じの道に入ってみると、正面に何となく見覚えのあるような気がする建物が見える。
近づいてみると、建物に突き当たった道は右回りの一方通行でロータリーになっているようで、左側にはバス乗り場がある。

一方通行に従って建物の裏に回りこんでみると、キハ30が停まっていた。やはり、ここが旧鍛冶屋駅だったのだ。
では、クルマを停め置いて観察しよう。

駅舎内には市原駅記念館と同様に展示物が置かれているが、残念ながら格子戸が閉まっていてよく見えない。

ホームには、鍛冶屋の駅名標と並んで、何故か中村町の駅名標も建っていた。

ここのキハ30も色褪せが激しい。
にしても、方向幕を抜かれた鉄道車輌の姿は哀れだ。

どうやら先ほど見た遊歩道は、ここ鍛冶屋まで繋がっているようだ。

遊歩道の脇に、ひっそりと説明文が書かれた看板があった。

遊歩道を歩いてくると、キハ30がゴールで出迎えてくれるという格好だ。

モニュメントのように、信号機のリレーボックスが1機だけ残されていた。

踏切があったはずの道路との交差点は、優先順位が逆転してこちらに一時停止の看板があった。

全体の大まかな位置関係が解ったので、帰りは線路跡の遊歩道に近い所をたどってみるとしよう。
右に鍛冶屋線跡の遊歩道を見ながら、県道86号線を南下。建物が増えてきて見通しが悪くなったところで右折してみると、いきなり立派な建物が現れて驚く。
 
多可町ベルディーホールというらしいが、その前を通る道に遊歩道が繋がっている。どうやらここから先は幅広の一般道に転用されたようだ。

ここには『鍛冶屋線跡を転用した遊歩道である』旨の説明書きがあった。

ではまた、遊歩道を歩いてみよう。
鍛冶屋方面に向かって引き返す形だが、暫く行くと川を渡る橋梁がそのまま残っていてびっくり。

橋を渡るとかなり急な下り勾配で、この光景は見覚えがある。というか、鮮明に思い出した。

クルマに戻り、線路跡が転用された道路を走る。
 
約25年前、正にこの場所をキハ20だったかのディーゼルカーに乗って通ったのだ。
当然その時は、まさか後々になって自分が運転するクルマでその場所を通ることになるとは想像だにしなかった。

感慨深げに走り出して暫くすると、左側に公園があって駅名標らしきものがチラッと見える。
クルマを停めて行ってみると、どうやら中村町駅跡らしい。

公園として整備されたようだが、駅名標以外はこれといった遺構は見当たらず。
 
再び線路跡を走る。以前、福岡県の矢部線廃線跡ドライブに同乗したことがあるが、あちらよりも道路の幅が広く、おまけに多くのドライバーは国道を使っているからか交通量が少ないので、非常に走りやすい。

やがて、また左側に公園が見えてくる。どうやらここも駅跡のようだが・・・

やはりそうだ。

ここ曽我井駅は、鍛冶屋線唯一の請願駅だったとか。

色褪せた存続運動の看板が哀れだ・・・。

更にクルマを走らせていると、T字路に行き当たる。
線路跡は真っ直ぐ進み、ここから先はまた遊歩道となって、来るとき見た市原駅跡北方まで繋がっているのだろう。

仕方なく、右へ折れて県道を進み、頃合いをみて左折してみると、上手い具合に羽安駅跡に行き当たった。


駅舎はないが、ホームと上屋が残っていて、なかなかいい雰囲気を醸し出している。

線路側から見ると、なんとなく見覚えのある風景のような気がしないでもない。

暫し佇み、また25年前の乗車に思いを馳せた。



さすがに西脇市近辺は街が拓けていて交通量も多かったが、市原から鍛冶屋に掛けては非常に長閑な光景が広がっていた。
本文中でも述べたが交通量は少なく、また鍛冶屋駅跡から転換バスらしいバスが発車するのを目撃したのだが、乗客はたったの2名だった。このような状況では鉄道路線の廃止は止む無しだったろう。
廃線跡は遊歩道と幅広の一般道路に転用されていて、ほぼ全線に渡って辿れるようになっていた。脚に自信のある方は全線走破も不可能ではないだろう。
各駅跡も公園などとして整備されていて、有耶無耶にせず残しているのには好感が持てた。
 



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