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さようなら新宮夜行(乗車レポート)

もう見ることが出来ない「新大阪←→新宮」の行先表示
もう見ることが出来ない「新大阪←→新宮」の行先表示

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2000年9月30日(土)


21時54分。223系姫路行き新快速から新大阪駅16番ホームに降り立った。
厳しい残暑が続いていた今年も、さすがに彼岸を過ぎて衣替えの時期ともなると夜は冷え込みが厳しいのだが、今日は雨の影響か少し蒸し暑いぐらい。
22時も近くなると、さすがの新幹線コンコースもひっそりした状態になっている。上りの発車は、のぞみ34号(名古屋行き)を残すのみ。



さて、レポートが夜のシーンから始まると違和感があるかもしれないが、今日の取材対象は「新宮夜行」である。

紀勢線を走る夜行列車は歴史が古く、私が物心ついた頃には、天王寺〜名古屋間に「南紀」という夜行の普通列車が走っており、天王寺〜新宮ではB寝台車も連結されていた。(もちろん旧式客車)
紀勢線が新宮まで電化されると、名古屋〜紀伊勝浦間に新設された特急に「南紀」の愛称を譲って「はやたま」と改称。その後、電車化(113系)に伴い運転区間が天王寺〜新宮に短縮され、天王寺行きは廃止されて新宮行きのみの運転になった。寝台車がはずされたので列車愛称もなくなったのだが、いつの頃からか「新宮夜行」と呼ばれるようになる。
冬季の車内保温のため、デッキ付きの165系に車輛を置き換えたり、新大阪〜天王寺間延長運転などが行われたが、利用は芳しくなく、現在は基本的に紀伊田辺行きとなり、土休日の前日のみ新宮まで延長運転されている。
「磯釣り列車」として人気があった新宮夜行も、高速道路の開通や夜行バスの進出で肩身が狭くなったものだ・・・。

そしてついに、今日を最後に新宮夜行は終焉を迎える事となった。
私にとっては、幼少の頃から慣れ親しんだ阪和線を走る夜行列車が消滅するという事で、いてもたってもいられず最後を看取りに来た次第。とはいえ、時間と予算の都合で天王寺までしか乗車できないのは少し心残りではあるのだが・・・。

なお、今日の取材には、大阪府在住のDCT−65190さんに同行いただいており、新宮夜行最後の走りを二人してシッカリ記録しておきたいと思う。



梅田貨物線を経由する旅客列車が発着する新大阪駅11番線に降りていくと、283系オーシャンアローの回送が発車を待っていた。

新宮夜行の入線は、発車時刻間際であると記憶しているので、それまでホームを観察する。
階段の壁に、新宮夜行が今日で終焉を迎える(た)旨の掲示を発見し、やっと廃止が現実のものとして認識されてきた。やがて新大阪駅11番ホームには、新宮夜行の最後を見届けようとする30名ほどのレールファンが、どこからともなく集まりだし、11番ホームの発車案内に快速新宮行きの表示が現れると、あちこちからフラッシュが焚かれる。

隣の10番ホームに、東京行きの寝台急行銀河が入線。新幹線のぞみ号の隙間を埋めるダイヤが組まれており、かなりの乗客が認められたのは目出度いこと。


新宮夜行入線を前にして、空から大粒の雨が落ちてきた。カラッとAOZORAネットワークを自称する私も、新宮夜行の涙雨には勝てなかったという事か・・・。

発車2分前の22時43分になって、漸く165系6両編成の最終新宮夜行が入線。撮影時間が2分しかないという事で、ホームは蜂の巣を突付いたような騒ぎとなってしまう・・・。特に、停車前にフラッシュを焚くという行為はルール違反であり、駅掌も注意していいと思うのではあるが。(-_-)

遠巻きに撮影を終えた私は、先に乗り込まれているDCTさんの元へ歩いて行こうとしたのだが、ドア横のサボ受けに「はやたま」というサボが掲出されているのを発見! 今は名無しの夜行快速列車なのだが、今日の為にJR西日本の職員さんが準備されたのだと思うと、レールファンとして非常にありがたく思い、感動する。

車内に入ってみると、先頭車の乗車率は50%程度で、撮影を終えたレールファンがあちこちで歓談している。私も、DCTさんと向かい合わせで1ボックスを占領。

新大阪を発車すると、左にJR京都線の複々線を見ながら梅田貨物線の淀川橋梁を渡りはじめる。車掌から、今日が最後の新宮行きとなる旨の案内放送があった。
右にカーブを切って、真っ暗闇の梅田貨物駅を通過。東海道線をくぐり高架に上がると、左に大阪環状線の複線が見えてくる。梅田貨物線内は速度制限が多かったと記憶しているのだが、関空特急はるか号が頻繁に走るという事で改良が加えられたのか、思ったよりキビキビとした走り。
西九条駅構内でポイントを渡って2・3番線(桜島線が発着するホーム)に停車する。西九条を発車すると大阪環状線の内回り線に転線。運転台では、ATSと無線の切り換えが行われたはず。

DCTさんと、新宮夜行の想い出話に花を咲かせながら車窓を眺める。(といっても、ほとんど真っ暗闇。)
西九条を発車すると、弁天町・新今宮と停車するのだが、普通電車の少ない時間帯という事もあって、昼間の大和路快速より速いスピードで快走。新今宮駅のホームにも、三脚の林が出来ていた。


天王寺駅16番線に到着。残念ながら私が乗車できるのはここまで。後ろ髪を引かれる思いでホームに降り立つと、入れ違いに多くの乗客が乗り込んで、いつものように阪和線快速状態となる。平面クロスとなる大和路線の入線を待っている間、もう一度最終新宮夜行の表情を見つめるが、165系は我関せずといった感じで進行信号の現示を待っている。明日からは見ることが出来なくなる「新大阪←→新宮」の行先表示が雨に濡れていた。

阪和線への渡り線を登って行く最終新宮夜行のテールランプ。見えなくなるまで、涙を堪えて見送った。「ご苦労様、ありがとう。」と心の中で呟きつつ・・・。


ホームから路盤を見下ろせば、役目を終えた停止位置表示板が見える。しかし、よく見ると「金曜・休日前は新宮行」の部分はガムテープで貼り付けてあるだけで、これを剥がせば新宮夜行は過去のものとなってしまう・・・。

改札を出て、地下鉄で帰途に就かれるDCTさんと挨拶して別れると、なんだかやりきれない気持ちにもなったのだが、近鉄の終電に間に合わなくなると困るので、悲しみを立ち切って大阪環状線内回り電車に乗り込み、帰途についた。



私が紀勢線の夜行列車に乗車したのは、今日を入れて3度のみだった。しかも、今日は新大阪〜天王寺で、前回は新大阪〜東岸和田という、何れも夜行区間に入る前に降りてしまっているので、実質は1度のみ。
記憶の断片を辿って、その1度きりとなった紀勢線夜行列車の思い出を書き綴って、新宮夜行の鎮魂歌にしたいと思う。


それは昭和57年3月の事だった。当時高校生だった私は国鉄全線踏破を志し、青春18のびのびきっぷ(現在の青春18きっぷ)を使用して、近畿周辺部の未乗線区に足を運んでいた。

関西本線で亀山へ出、紀勢線を下りながら名松線と参宮線を踏破したあと、多気から旧式客車の普通列車に乗り込んだ。これが、新宮でB寝台車を連結して「はやたま」となる列車であり、当時は和歌山市行きの編成(といっても、確か2両だったはず)も併結されていた。
ディーゼル機関車(DD13だったと思う)牽引の普通列車は、夕闇迫る紀伊半島をのんびりと走り、大内山あたりで周囲の景色がなくなったと記憶している。心地良い客車列車のリズムに身を委ねて仮眠を取っていたが、日が沈んでからの冷え込みが厳しく、寒さで目が覚めたのが熊野市あたりだったか。寒いのを我慢しつつ、深夜はもっと寒くなるけど大丈夫だろっか?などと心配になっていた。

新宮に停車すると、ここまで牽引してきたディーゼル機関車がさっさと離れ、B寝台車を連れた電気機関車(EF58だったはず)がやってきて連結。寝台車には「はやたま」のサボが掲げられていた。
連結作業を見終わって「はやたま」となった列車内に戻ってみると、足下のカバー下にあるスチーム配管がカチカチ鳴り出し、やがて少しづつ暖かくなってきた。
新宮を発車すると、あとは闇の中を走るだけ。乗車率は50%を切っており、私は1ボックス占領状態で再び仮眠に入った。

私の記憶が確かならば、当時の「はやたま」は和歌山4時00分着4時05分発で、天王寺5時00分終着(阪和線内はノンストップ)というダイヤだったのだが、和歌山到着前(深夜3時台)に車掌の『おはよう放送』があったのには閉口。(-_-)
その後は目が冴えてしまって、自宅の最寄駅(和泉橋本)通過を確認したり、満車に近い鳳電車区を眺めたりなど。

未明の天王寺駅9番ホームに到着。その後は、山陽本線を岡山へ下り、伯備線/倉吉線/若桜線を踏破し、更に夜行普通列車「山陰」で京都へ。続いて越美南線/樽見線/東海道線の赤坂枝線を踏破して、帰途についた。
 



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